婚約指輪 配達 o.t.o
遠回りしてようやく、君の瞳が見えた

「もう、冬だなぁ」


吐く息は白く、薄く、冷たい冬の空気に消えてゆく。
彼の白いシャツと、わたしの紺色のセーラー服。
たまたま彼のネクタイと、わたしのリボンがエンジだったから、
私は少し嬉しくなる。彼との距離が、少しだけ縮まったような気がするから。

母親が「成長するから、大きいサイズでいいわよね」といって選んだ制服も、
もうすぐ入学から3年経ちそうな今は、ぶかぶかな制服で過ごしたあの頃と違って、
大きかったセーラー服は、今はぴったりと体に合っていた。
少し丈が縮まったスカートが風に靡くたび、私は小さな嬉しさで心を温めていた。



*



「あれ、亜紀じゃん」


入学式が終わった後の廊下で、彼はそうやって私の名前を呼んだ。
清ちゃん、わたしはそうやって彼の名前を呼びたかったけれど、
わたしの目に飛び込んだ彼の姿を見て、わたしはその言葉を失った。

清ちゃんは数学の教師だった。
清ちゃんが、授業に初めて現れて、黒板の前に立ったとき、私はそれを知った。



*



清ちゃんはもともとわたしの家庭教師で、
やっぱり数学を教えてくれていた。
わたしは大の数学嫌いだったけど、清ちゃんの教える数学は好きだった。
清ちゃんがいる数学と、いない数学じゃ、全然違う。私はそう思っていた。


「俺、岬高校の教師になるわ」


清ちゃんは笑顔でそう私に告げた。
いつも明るくて、優しい清ちゃんの笑顔が、凄く、凄く、幸せそうだった。
わたしは、そんな清ちゃんが大好きだった。


清ちゃん、大好きな清ちゃん、清ちゃんは、先生になった。

また、遠い存在になってしまった。


猛勉強の末、入った清ちゃんがいる高校。
わたしがやっと見つけた清ちゃんは、ずいぶんと背が伸びて、凛々しくなっていた。
白いシャツを着て、さっぱりと切られた彼の髪を見て、
そして、彼の数学の授業を受けて、わたしはやっと実感したのだった。

彼は、教師になったんだ、と。

今まで単語でしかなかった「教師」の二文字が、
その時はじめて、ありありとした現実としてわたしの目に映った。
そしてそれは、ちくりと、そしてずきりと、私の胸を軋ませた。

清ちゃんがいる数学、今ではそれが一番嫌いだった。好きになれなかった。



*



「入学当初は本当驚いたよ、まさか亜紀がここに来るなんて」
「そう?」
「だってあんなに嫌いだったろ、数学、ほら、俺がまだお前の家庭教師だった時」


そのときは、すきだった。数学はからきしだったけど、
彼のいる数学は、そのときは、すきだった。と、私は思う。


「それでも、勉強したんだよ」
「そうなのか?」
「うん、だから、受かったんだもん」


そうかそうか、と彼は笑ってわたしの頭をぽんと叩く。


「来年、3月か、いよいよ亜紀も卒業だな」
「いよいよ、ね」
「俺はどうなるかな、まだここに残ることになんのかな?」
「どうだろ、でも、清ちゃんは、ずっとここにいそう」
「それってどうなんだよ」


彼は笑う。わたしも笑う。
もうすぐ、私は卒業する。もう、先生と生徒の関係ではなくなる。
それを考えたら、わたしは今にでも卒業したかった。
卒業して、制服を脱いで、彼のもとへ走って飛び込みたかった。早く、早く。
卒業したの、もうわたし、一人前よ、なんて言って。


「早く卒業したいなぁ」


その言葉は、冬の冷たい空気にとけて、あっという間に消えていく。
わたしの横で、清ちゃんが、少し咳をして声を正した。


「卒業したら、一緒に沖縄でもいくか」


沖縄?とわたしは聞いた。
なんで、どうしたって沖縄なの?わたしは困った顔をして彼にみせる。
でも、沖縄だって、なんだって、今はその言葉が嬉しかった。
たとえその言葉に、この場にもっともふさわしくない単語が含まれていたとしても。


「雪も、とけるだろ」


そうやって清ちゃんは笑う。
恥ずかしそうに、どことなく頼りなさげな清ちゃんの笑顔が、私の心の雪を溶かす。

ぴたりと体にあった制服も、膝丈のスカートも、頼りなさげに見える彼の笑顔も、
あのころとは、また、違う。やっと、2年半以上、経ったのだ。

もうすぐ、春がやってくる。
そしたら、雪を溶かしに、沖縄へ行こう。

今度は、清ちゃんとならんで、手を繋いで。


090614 遠回りしてようやく、君の瞳が見えた