婚約指輪 配達 o.t.o
朝焼けまであと1時間

青色の少しだけ錆びた自転車。
後ろに飛び乗った悠美の衝撃で、ギギ、と鈍い音がする。
それとほぼ同時に、冷たくて深い空気がすぅと通りぬけていく。


「ちょっと寒いね、風が冷たい」
「じゃあ、悠美が俺の代わりに漕ぐか?」


尚人の代わりに?といって悠美は笑う。
それにつられるようにして、俺も笑う。
風はやっぱり冷たくて、俺は勢いよく足に力をこめペダルをまわす。
夜の風が、更に強く、びゅんっと音をたてて俺たちの体のすぐ近くを通る。


「寒いけど、でも、気持ちいい風だね」
「そうだな、なんかさ、夜の風は澄んでるっていうか」
「なぁに、それ」
「知らない、ただそんな気がするんだよ」


悠美の家から出て、河原まで来る。
いつも中学生が一斉に揃った掛け声を上げて走っていくのに、今はその姿も見えない。
俺も中学、高校とその中に混じって声を上げて汗をかいていた。野球部だった。
今は既に引退して、卒業して、大学でスポーツ学を学んでいる。
高校の時、引退すると同時にもう野球は最後にすると決めて、今は野球はやっていない。


「悠美は大学生活どんな感じ?」


質問の答えはなかった。
悠美と俺は幼馴染で、高校まで一緒だったが、
ふたりとも進路が違った為、違う大学へ進んだ。
それまで毎日のように顔を合わせていたが、
大学に入ると同時にどちらとも忙しくなり、連絡もとりあわずに1ヶ月ほどすぎていた。

それなのに、今日、1時間ほど前に悠美から俺の携帯に着信があった。


『尚人、会いたい、今会いたいの』


時計は夜の1時を既に過ぎていた。
電話口の悠美の声が、今にも消え入りそうで、俺はすぐ行くと言って、
こうして悠美を乗せて夜の風をきっている。


どうやら、問題は大学のことのようだ。
悠美は昔から、図星といったようなつっこまれた質問をされるとすぐ黙る癖がある。
俺が何か問いただしたり、少し探っただけで俯いたまま、悠美は口を閉ざした。
それから俺ができることはひとつ、悠美が話し出すのを待つだけだった。


深い沈黙が、闇の中へとけてゆく。
錆びた自転車が、ふたりの重みでギイ、ギイとこぐたびに唸った。
沈黙の間もびゅうびゅうと吹く風に、俺は少し身を震わせた。
後ろで、悠美も体を震わせているのだろうか。暗くて、よくわからなかった。


「わたし」
「 ん」
「わたしね、学校、辞めようかなと思って」


ぽつりと呟く悠美。俺は自転車を漕ぐ力を緩めて、彼女に視線を向ける。
やっぱり、暗くて、よくわからない、よくわからないけれど、
彼女がずっと、俯いているのはわかった。いつもより、彼女が小さく見えた。


「どうして?」
「私の好きな歴史の勉強もできて楽しいけれど、凄く苦しいの」
「うまく、いかないのか?」


こくりと小さく、そしてゆっくりと彼女は頷く。


元々、人と話すのが苦手な悠美だったから、きっと人間関係で悩んでいるのだろう。
今までずっと、悠美は俺としか一緒にいなかったほどだ。
中、高と俺が野球部員で悠美がマネージャーだった。
マネージャーなのに悠美はいつも俺につきっきりで、
いつも他の部員からからかわれたり、ブーイングを言われたりするほどだった。
幼馴染を通り越して、告白をするでもなく恋人のような関係になったのも、そのせいだ。
あまりにも一緒に居る時間が長すぎて、俺と悠美の境界線はぼやけたのだ。
逆を言えば、他を寄せ付けなかったことになる。
悠美の人とうまく接することができない性格は俺に原因があるのかもしれない。


「わたし、今までずっと尚人と一緒にいたよね」
「そうだな、幼馴染、だもんな」


俺はわざと幼馴染を強調して喋った。
悠美の下げられた頭が、少し上に上がったように見えた。


「幼馴染、なの?」
「それ以外に何があるっていうんだ?」
「わからない」

「でも、幼馴染じゃないよ、それ以外でもない」
「それじゃあどんな関係だよ」
「わからない」

「わからない」


わざと俺はその言葉を繰り返す。
俺だってわからない、幼馴染なのか何なのか、または何でもないのか。

俺にとって野球を辞めたのは苦ではなかった。
小さい頃からずっと続けてきたものの、それはなくなっても少し心寂しいといった風だった。
でも、悠美が大学に入っていなくなって、俺は、喪失感を味わわずにはいられなかった。
誰かが、「いなくなってから、その大切さに気づく」と言っていたような気がする。


「学校に、尚人がいないの」

「今まで当たり前だったのにね、いないって、凄くさびしい」


かすかに、でも確実に、彼女の嗚咽が小さく聞こえた。
右手を顔の前で動かしているのは、きっと、涙を拭っているのだろう。
鼻を、すする音がした。後ろで、悠美は泣いている。

反射的に、でもそれは意図的に、
俺は自転車を降りて、悠美を後ろに座らせたままスタンドを下ろす。
やっぱり、彼女は震えていた。いつから泣いていたのか、それすら俺にはわからない。
だって、震えていたことすら、闇にまぎれて見えなかったのだから。


「わたし、尚人がいなくちゃだめ」

「わたし、尚人がすきなの」


か細い声だった。
そのまま、俺は悠美の小さな体を引き寄せて抱きしめた。
嗚咽が、少しづつ、大きくなっていく。
悠美を抱きしめる腕の力も、少しづつ強くなる。

朝焼けまであと1時間。
明るくなったら、きっとわからないものもわかるようになる。

そうしたら、今度は、俺が悠美に言おう。
腕の中のぬくもりと過ぎ去る時間の中で今までの気持ちを再確認して。

「俺も、悠美が、すきだ」と。


090614 朝焼けまであと1時間