婚約指輪 配達 o.t.o
君がいれば、それでいいと

「りくちゃんの手、あったかい」


春の日の午後だった。暖かな日差しが包む白塗りの部屋で、彼女は小さく笑う。



*



去年の冬、彼女が自宅で倒れたことを俺は3日後に彼女の友人からの電話で知った。
命に別状はない、今は伊豆の病院に入院している、とのことだった。
仕事も放り出して駆けつけた病院の白に染まった部屋の中で、その色に染められたような彼女がいた。


「ごめんね」


俺の姿を見て彼女がそうぽつりと零すから、
俺はただ、白い扉の間でぼんやりと立ち尽くすことしかできなかった。
上手に言葉がでなくて、上手に話せなかった。



*



「りくちゃんの手は、優しくて好き」


彼女が微笑んだ。白い病室が、春の日差しでやわらかく色づく。


「あったかいね」
「幸の手だって、あったかいよ」


ふふ。と幸は笑う。俺は反射的に、幸の手を強く握り締める。
強く握り締めていないと、彼女の軽い体が消えてしまう気がして。


「親父さんとお袋さん、まだ来てくれないのか」
「うん、多分このままずっと来ないんじゃないかな。
ほら、私こんな親不孝な娘だし。あ、どうかな、もしかしたら娘でもないのかも」


こんな親不孝、と彼女がまた呟く。

幸と俺が出会ったのは、学生時代、専門学校でだった。
俺は映画コースに所属し、日々研究室に篭っては映画作成に明け暮れていた。
1階にあった研究室は、窓から外が広々と見えて、俺はいつもその傍らの机に座っていた。

”白のキャンバス”それが彼女、幸のあだ名だった。
俺が初めてそれを聞いたのは、同じ部の友人からで、
初めて目にしたのは、いつものように窓際の机に座っていた時だった。
長方形の窓ガラスの外側で、彼女は大きな白いキャンバスをかかえて、
まだ葉が生えたばかりの木をぼんやりと眺めていた。

白いキャンバスが、初夏のひかりを集めて、俺の目にまぶしく差し込んだ。
気がついたときにはあっという間に、彼女は草の上に色とりどりの絵の具を広げて熱心に筆を振っていた。

白いキャンバスはあっというまに緑に染っていった。
一概に緑といってしまえばそれまでだが、それは、色とりどりの緑だった。
キャンバスから顔を上げた彼女の頬まで緑になっていたから、俺は思わず笑ってしまった。
でもその横顔は、何か、彼女の中で深いものが渦巻いているような、そんな感じの顔つきだった。


「頬、ついてるぞ」


彼女と、視線が合った。ぽかんとしたような表情を彼女は浮かべていたが、
俺が自分の頬を指差すと、はっとしたような顔をして、頬を拭った。


「絵の具」


そう言って彼女は恥ずかしそうに笑った。
薄紅色に紅潮した彼女の頬が緑いっぱいのキャンバスに隠れたその瞬間
俺は緑の木に花が咲いたように見えた。

その頬についた絵の具のことさえ忘れて筆を振るうほど彼女は、熱心で、真剣だった。
俺も、映像制作に燃えていた時期だったし、熱心で、真剣だった。
幸と、俺の、共通点だった。


それから俺と幸は始まった。


聞いた話だと、専門学校に入学する前、両親に酷く反対されたそうだが、
彼女は勝手に試験を受けて、勝手に入学したそうだ。
学費は全部彼女持ち。彼女は高校3年間両親にも何も告げず働き資金を貯めてきたらしい。
届いた合格通知を手に、両親に「東京に行く」と告げた瞬間殴られ、勘当された、と彼女はいった。

彼女の両親は二人そろって教師で、教育にも非常に厳しかったという。
厳しい教育も、愛がないんじゃ堪えるの、そう彼女はもらしていた。


こんな親不孝者、そう彼女が言うのは、そんな理由からだった。



*



「親不孝なんかじゃないよ、幸は」
「いいよ、別に」
「でも、それは俺が一番知ってるんだ」


狭い室内だったから、そのあとの沈黙も長く続いたような気がした。
でも、俺は、彼女が本当に熱心で、どれだけ本気か知っていたから、それだけは伝えたかった。


「私はりくちゃんが居てくれればそれだけでいいの」
「親不孝者でも、りくちゃんがいるからそれに耐えられる」


胸が、締め付けられるようだった。
彼女も、俺も、いつも俺だけを、彼女だけを支えにしていた。
誰にも頼らず、誰も信じず。


「私の病気、治ると思う?」
「治るさ」


彼女は右の手を俺が握っている左の手の上に重ねる。
病室のカーテンがふわり、風にふかれて舞い上がる。


「じゃあ、私に祈って」
「幸に?」


うん、と彼女は小さく頷き、その後俺の目をじっと見つめる。
気のせいか、彼女の握る手の力が強まった気がした。


「わたしは、りくちゃんがいればそれでいいの」
「俺も」

「俺も、幸がいればそれでいい」


彼女が俺を信じるように、俺も彼女を信じていた。
だから、彼女に祈る。彼女の他に誰も信じないのなら、誰かに祈る必要なんてないのだから。

彼女が握る手の力が強まるのと同じように、
俺も彼女を握る手の力を強めた。

春の日差しをあつめた白い病室は、
今日も赤く染まる彼女の頬の色でぼやけて、
あの日見た白いキャンバスのようだ、と俺は思った。


「りくちゃんの手、あったかいね」


彼女は、また笑う。
幸の手だって。あたたかい。
その温もりだけでいい、それが彼女がここにいる最もな理由になるから。


090613 君がいれば、それでいいと